おみそコラムcolumn
ニッポンの文化を見直そう vol.19 〜皿に料理を〝乗せる″は間違い!だから日本語の使い方は難しい〜
我々が何気なしに読み・書き・喋りしている日本語だが、実は全世界的に見て非常に難解な言語として位置づけられているのをご存知だろうか。米国国務省は、外交官が交渉可能なレベルまで語学を学ぶのに各々の国の言語を1〜4に分けている。そこで、日本語は難しいとされるレベル4に分類されるのだ。習得までに2200時間を要するといわれており、イタリア語やスペイン語の600時間とはかなり時間がかかることが示されている。難しい理由は、平仮名・片仮名・漢字と文字種が多いこと。漢字にも音読みと訓読みがあり、その上、特殊な読み方も加わるとあって難解に。さらに使用語彙量も多く、敬語も加わるとあらば、外国人から超難解言語といわれても仕方がないだろう。それもそのはずで、ずっと日本で暮らして来た我々でさえ怪しい表現はよくあるのだから…。
 文章を生業にする私ですら時折り間違えることすらある。流石に編集者や校正者が付く出版業界は、書籍などにおいて語彙の間違いは少ないが、文字に重きを置かないTVなどは、度々その間違いに遭遇する。最近は、画面にテロップが出ることが多く、そこで間違いを指摘せざるをえない。例えば、「亘る」なる表現。「三年にわたる労力」という場合は、よく「渡る」の文字が使われていたりする。本来、時間・回数・数量を示す時は、「亘る」の文字が正しい。だから「三年に亘る労力」と書かねばならない。一方、「渡る」は、隔てたものをもう片方へ移動するの意で、行動が伴うと理解願いたい。「乗る」と「載る」の違いもそれに似ている。前者は他のものの上にあがるを意味しており、乗る・乗せるといったように行動が伴う。「載る」の方は、出版物に記される時に使われているし、単に器に載せる時や、料理の上に載る際には、「載」の字を用いる。例えば、焼いた牛肉の上に揚げたニンニクチップを載せるといった具合いにである。ただ難解なのは、ブームに乗る、風に乗るという時は、それを行動の一種として捉え、「乗」の字を使用するのだから難しい。これも人の行動として捉えているのだろう。
 私は、仕事がら料理レシピに接することが多い。料理人やフードコーディネーターから料理の作り方が原稿として送られて来るが、それを直して出版社やメーカーに送るのも仕事のうちであるし、そうしなければきちんとした原稿として成立しづらくなるのだ。最も直すのは、先の「乗る」「載る」の違い。そして「ととのえる」の漢字だ。一般的には「整える」をよく使うが、国語事典を紐解くと、それは望ましい形や状態にすることとなっている。料理では、ハンバーグを成形する時などにその字を当てる。一方、塩・コショウや砂糖で味を調節する時は「調える」が正しい。意味は必要なものを揃えること。つまり足りない何かがあるからそれを用いて「味を調える」のだ。
 「炊く」と「煮る」も使い方をよく間違える文字。「炊く」を国語事典で探すと、穀物を煮て食べるようにするとある。本来、「炊く」は米を炊く時に用いる言葉で、水や湯がベース。そこに米を入れて炊くのだが、豆や野菜にも適用されており、調味料などは加えられていない。味噌や醤油、みりんなどの調味料を入れて食材に熱を加えると「煮る」の表現となるのだ。ただ関西では、「煮る」と「炊く」の区別が曖昧で、「煮炊きする」との表現もあるので分かりづらいのは事実である。「焚く」も「たく」と読むのだが、これは字の如く木をくべて燃やす行為からつけられた表現で、昔の風呂がそのようにして湯を沸かしたので、風呂を焚くと記すようになっている。ただ、なぜか会席料理の焚き合わせには「焚」の字を当てているようだ。焚き合わせとは、二つの鍋で煮たものを合わすのが本来の料理であると、料理界の偉い人から教わったこともある。これとて昔は木をくべて焚いていたからこの字なんだろう。「茹でる」もあるが、これは湯に入れて熱を加える場合、つまり調理工程時に使われることが多い。ちなみに「ゆがく」は、湯がくと書き、さっと短時間湯に入れて熱を通す時に用いると考えてほしい。

「塗る」と「付ける」も紛らわしい言葉。「塗る」は、表面にこすりつけて薄く伸ばすことで、「付ける」は離れないようにつく様を示しているようだ。例えば、六甲味噌製造所の「田楽みそ」は、モノにつけて伸ばすので表現としては、「塗る」になるが、白味噌の「酢みそ」「白味噌ディップ」の場合は、伸ばす行為がないから単純に「付ける」となるのが正しい使い方であろう。これに付随して「伸ばす」と「延ばす」も説明しておかねばなるまい。調理の場合、「伸ばす」は、ものを長くするの意で、「延ばす」は時間軸を指す。時間が延びることを延長というように長引くことを示すのだが、それとは別に調味料を用いて「のばす」時は「延」の字を使うようになっているのだ。これは引っ張って伸ばす行為や薄く平たくする行為ではないことによると筆者は理解している。

「なめる」も「舐める」と書くものと、「嘗める」と書くものの二つがあってわかりづらい。前者は舌の字が当てられているように舌先で撫でるように触れる。そして口内で溶かす行為。後者は、肝を嘗めるや、苦汁を嘗めるなど経験を意味している。要は口の中とは無関係の時に用いるようだ。でも金山寺味噌のように「なめ味噌」には「嘗める」の文字を使っているのだからやっかいであろう。そういえば六甲味噌製造所の”ごちそう味噌”も嘗め味噌の類である。

兵庫のごちそう味噌セット
 レシピ原稿でいうと、「適量」と「適宜」の違いもよく直す文言だ。「適量」とは、文字通り丁度良い量を示す言葉。それに対し、「適宜」は、都合よく自身の判断に従うの意で、調理時には、その場合に合わせて各自が良いと思う量という意味になる。「適宜」は、行動を示すことが多く、ならばレシピ表現の時は間違いではないにせよ、「適宜」より「適量」と書くのがふさわしいように思う。
 料理表現もさることながら私は、「塩梅(あんばい)」なるフレーズをコラムなどで多用する。「塩梅」とは、具合いや調子の時に使う丁度良い頃合いの意。まだ食酢が一般化してなかった時代には梅酢を用いて調理していた。梅酢とは、梅を塩に漬けた時にできる酢のことで、その梅酢と塩の味加減が丁度いいことを示すのに「塩梅」と呼んだのだ。今では調理用語だけでなく、身体の具合いや日和(ひより)を示す時にも用いている。こんな歴史的事象が言葉として残るのだから、日本語習得は大変なのだろう。(2023/7/4)
(文/フ―ドジャーナリスト・曽我和弘)