黒大豆味噌でおうちカフェのススメ⁉
私たちは、「フードメディア研究」(大阪樟蔭女子大学学芸学部ライフプランニング学科)なる授業で、味噌の新たな使い方について挑戦した。今回使用するのは、六甲味噌製造所の「黒大豆味噌」である。同商品は、兵庫県産米と兵庫県産黒大豆を100%用いて仕込んだ天然醸造の味噌だ。丹波産黒豆ならではの甘さがいきた、まったりした味わいが特徴で、HP内の商品説明によると、粒が残っているために炒め物に用いると、いい香りが出ると書かれていた。炒め物は味噌汁でその味わいを確かめてほしい。椀から放つ味噌の香りといい、その広がり方が何ともいいのだ。まさに黒大豆の香が椀の中で花開くとでも言おうか。これは黒大豆をたっぷり使って醸造した証しでもあろう。
例えば、人に「味噌をどんな料理に使う?」と問えば、大半の人は「味噌汁」と答えるだろう。勿論、我が家でもそうだが、調味の工夫でいうと、母親は「味が決まるから」との理由で麻婆豆腐の仕上げに用いる。そんな話を聞いていて、ふと疑問が浮かんだ。味噌は、調理法もフィットする食材がいっぱいあるのに、ほとんどの人はなぜ和の域に、使用例を持って行きたがるのだろうと_。私たちが、レシピづくりに挑んだ授業のテーマは、「味噌は和食だけの調味料にあらず」だった。ならば、この「黒大豆味噌」で和食以外のジャンルに使ってみるのもいいのではないか。
まず、私は黒大豆の歴史と、味噌の歴史を調べることにした。黒大豆は、日本では古くから栽培されていたそう。起源は定かではないが、はっきりと丹波黒豆が取り挙げられているエピソードが江戸時代に見られる。この時代には丹波の黒豆が名産物として市場で売られていたようだ。文献に「丹波黒豆は、良いものだ」と記されており、将軍家へ献上品として送られていた。多分、将軍が篠山の黒豆を食べたのだろう、「丹波黒豆を納めたところ、その美味しさが認められて年貢が軽くなった」とのエピソードもある。現在、丹波篠山というと、黒豆がまっ先に挙がるのは、こういう愛されて来た歴史に裏付けられているのは言うまでもない。
一方、味噌はというと、江戸時代に「医者に金を払うよりも、味噌屋に払え」と言われるくらいに生活に浸透した食品になっていた。元禄期には、江戸の人口が50万人を超え、江戸近郊範囲ではまかなえなくなったために、三河や仙台から運ばれて味噌屋が繁盛したとある。今も残る落語「味噌蔵」や「味噌豆」を始め、十返舎一九「東海道中膝栗毛」でも各地の味噌料理が紹介されているし、川柳にも味噌を詠んだものが多々ある。多くの料理指南書が刊行されたことで、味噌料理がますます洗練され、味噌文化が花開いたことが窺える。ちなみに平均寿命が37~38歳ぐらいだった時代に徳川家康は75歳と長寿を全うした。彼は葉菜5種、根菜3種が入った味噌汁を食べていたようで、代々の将軍もその倣いを守って食膳に味噌汁を欠かさなかったとか。
私の調べた限りでは、なぜ黒豆の味噌ができたかの記述には当たらなかったが、将軍に気に入られ、同じ時期に人気を博していた黒豆と味噌_、この二つの材料を融合させて味噌を作ればもっと美味しい味噌ができるのではないか?そう考えた人が江戸時代にいたとしてもおかしくはない。
味噌と黒豆が永く、幅広い人に愛されたことはわかってもらえるだろう。そこで令和の時代_、価値あるこの調味料を和食だけに独占させておくのは勿体ないと考えた。その一例としてレシピづくりを行ったのがガレットである。ガレットとは、仏国ブルターニュ地方発祥の料理。そば粉で作られるものだが、主に小麦粉で作られるクレープのもとになったともいわれている。私たちは、このガレットに「黒大豆味噌」を用いることにした。当初、アイデア出しの際に「野菜が摂れるものにしたい」だの、「可愛くてオシャレなものを作りたい」「少しの量で満足できるものを」などと意見が出て考えがまとまらず難航した。ところが2020年はコロナ禍にあたり、「ステイホーム」が流行語だったこともあって「おうちでカフェがしたい」との声が挙がり、自分好みにアレンジできる料理にしようということで、ガレットを作ることになったのだ。
次に味噌の使い方について具材を炒めて載せる案もあったが、それでは味噌が主役になってしまう。ガレットの場合は、生地、具材、味噌と全てを調味させる必要性がある。そこで私たちは、味噌と牛乳を混ぜて濃厚なソースを作ることにした。そうすると、味噌の味を抑え、ガレットの生地と具材に調和をもたらすことができる。味噌はあくまで和のイメージが強い。これを少し抑え気味に調味することで、仏国のガレットにうまく融合したのである。
(文/大阪樟蔭女子大学学芸学部ライフプランニング学科 廣野陽美)